よりよい教育をすべての人に

 ゴリラはすごい負けず嫌いだそうです。人間もそうですが、ゴリラはもっとそうなのです。そんなゴリラが目指す人間関係ならぬ、ゴリラ関係が〝対等〟です。どちらが上でも下でもない、対等な関係です。

 一方、ニホンザルが(彼らも負けず嫌い)目指す人間関係ならぬ、ニホンザル関係はというと、それは自分の〝勝ち〟なのです。サル山のボス猿、あれです。強い者と弱い者をはっきりさせ、見せつけ、序列をつくる、それがニホンザルの目指す社会です。

 ゴリラは対等、だからとったエサも分けなくてはいけません。バナナを持っていると、みんながよってきて「私にもわけろ」となるのです。ちなみに分けろと要求するのは、弱いゴリラの仕事だそうです。ゴリラって教養がありすぎるよな。

 一方、ニホンザルはというと、エサは強いものだけが食べる。弱いものはそれを見ているだけで、けしてエサに手は出しません。強いものがいなくなったとき、次に強いものがエサに手を出すことができます。これがニホンザル社会の掟です。

 我々人間は、サルよりゴリラに近い動物です、99%ゴリラです。食卓を囲んでみんなで食事をとるのも、我々がゴリラ派だからです。自分さえよければいいと、一人で溜め込み誰にも分け与えない、人間に擬態した守銭奴サルもいるにはいますが、基本的にはゴリラです。だから対等、つまり平等を目指すのです。

 だから当然教育も、対等でなければなりません、ゴリラなのですから、でも残念なことに、時代は流れはニホンザル教育に傾いております。こんな感じです。

 自分が受けているよりよい教育(バナナだと思ってもらいたい)はお前には合わないから、あげない、お前にあったバナナは向こうにあるから、そっちに行って食べろ、それがお前のためだ、と。

 私立学校はサルの学校。財力や学力で子どもを選抜して勝ったサルたちだけが入学できる。教育バナナは限られた人だけのもので、お金も学力もないやつはすっこんでろです。ウキー、くるな、おれたちのバナナだ、お前たちは公立校に行けというのです。かねがね、なんでこんな差別的なものが義務教育で存在するのか分からなかったのですが、……今も分からない。

 さて公立校はというと、本来ゴリラ教育がおこなわれ、みんなにバナナが分け与えられられていなければならないのですが、実際は障害のあるなしで分けられ、弱いゴリラは、特別支援学校やら学級やら、教育支援センター(適応指導教室)に、ぽーんと投げ捨てられているのです。公立校に、いじめはない、障害を持った子もいない、日本語を話せない外国人の子もいない、授業中に立ち上がって騒いだりする子もいない、なぜか、追い出したからさ。こんな仲間はずれは、ゴリラ教育にあってはならぬことです。

 不登校のための小学校や中学校なんてものまであります。仲間はずれにされたゴリラのための学校です。こうなってくると排除はいかんとかいうレベルではなく、排除される側が、排除されるのはあたりまえとして、差別構造を支えているのです。

 エリート校から始まったサルの選別思想を、エリートでない、優秀ではない、弱い、しもじものゴリラが支持をしている……つもりではないと思うのですが、どういうわけか、通る道は違えども、強い者も弱い者も、同じサル教育支持にたどり着いてしまう。

 教育機会確保法なんてものが成立した根底には、対等を目指すゴリラの思想が、ゴリラの住むジャングルとともに、日本からなくなってきているのが原因じゃないかと、六畳間で天井を見ながらずーっと空想しておりました。秋になっていました。

 もし、よりよい教育というものがあるとするならば、それはすべての子どもが無料で受けられるものでないといけない、仲間はずれの上に成り立つよりよい教育なんてない、そうゴリラは考えています。いかがなものでしょうか。長いうえに、まとまりもありませんが、もうこれ以上、この空想を続けるのは体に毒なので、このまま書きっぱなしで、終わりとさせていただきます。うほうほ。

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