シン・エヴァンゲリオンシリーズを見終わって感じる、とてつもない残尿感、いろいろ伏線を張り、謎をちりばめ、さてどうなるかと、話は進むが、結局はシンジ君がアバババーと半狂乱になり、地球をボカーンと破滅させるという、あの、いつもの流れとなる。
庵野監督が表現しようとしながら、いつもうまくいかないのが、人類補完計画のところだと思う。碇ゲンドウがアレを始めると、もうアニメ自体が、めちゃくちゃになり、綾波がぼわーんと膨らみ始めて、中身がなんにもないシーンが延々と続くことになる。
そう思っているのは私だけではなかった、〝あの男〟もそう思っていたのです。あの男とは、アニメ界随一気むずかしい老人、宮崎駿監督です。庵野はいったい何をやっているんだ、もっとしっかりせんかい、と思っていた。いや思っていただけではありません、「庵野がつくれないなら、俺が作しかない」と自らエヴァンゲリオンの完結編を作っていたのです。それが、
『崖の上のポニョ』です。あれはジブリ初の子ども向けのアニメということになっていますが、そうではありません。宮崎駿版、人類補完計画なのです。
と、ここまで書いたことは全部虚言であり、妄想でありますが、私はあえてこれこそ真実だと言い張りたい。エヴァンゲリオンを見て、そのあとにポニョを見て欲しい。そうすれば、はっと気づくはずです、ポニョがやっていることは、庵野が描こうとして描けなかった、人類補完計画なんだと。
そもそもエヴァンゲリオンの隠れ原作は、風の谷のナウシカの漫画版です。ほんとうにそっくりなんです。ふたりが師弟なのは当然のこと。知らない人のために言っておくと、映画版ナウシカと、漫画版ナウシカはぜんぜん別物。漫画版ナウシカは、すべての宮崎映画の原作であります。ラピュタももののけ姫も、原作は漫画版ナウシカです。
宮崎駿映画に共通するおなじみの舞台設定というのがあります。忌まわしい人類を滅ぼし、汚染された地球を浄化し、新しい人類の世界をつくる、これは漫画版ナウシカの、ざっくりとした設定でもあります。しかしそうはさせないと、主人公ナウシカが立ちふさがる。そんなのは間違っている、汚れた大地で、滅びる運命だとしても、私はたち生きる、そんなのがいつもの宮崎駿ワールドです。
エヴァの人類補完計画とは、ナウシカのいないナウシカの世界の、地球浄化計画だと思ってもらいたい。巨神兵がエヴァンゲリオンそのまんまなのはさておき、こうした駿の影響というより、まんまの世界観をコピーしてつくられているのがエヴァであって、庵野監督の才能は、こういういろんなものをコピーして、とてつもなく面白いものをつくり上げるところにある。
でもそこに欠点があって、この駿の、人間なんてみんな死んじゃえばいいんだ、という狂気を映像化してみせるというのはなかなか難しい、その狂気の映像は駿の頭の中にだけあるものだからです。
でも、だからこそ駿にならできるのです。駿なら人類補完計画の映像化ができるのです。庵野がつくったエヴァのがっかりラストを見て、駿はいてもたってもいられなくなりました。ええい、じれったい、俺にやらせろ、俺がエヴァンゲリオンを完成させてやる、と鼻息荒くつくったものが、『岸の上のポニョ』です。
ポニョは、駿から庵野への贈り物なのです。人類補完計画の完全アニメ化です。どうだ庵野、こうやってつくるんだぞ、えっへん、そんな駿の声が聞こえてきそうです。
庵野は駿の影響を受けてエヴァをつくり、そのエヴァの影響を受けて駿がポニョをつくる、そんなわけのわらないループがおきたのです。
ポニョが魔法の力で、月をひきよせ、嵐を起こり世界が沈没するシーンが有ります。ポニョにおける、セカンドインパクトですな。その時に画面に映る大きな月は、エヴァンゲリオンそのものだし、世界中が水びだしになってしまうというのもエヴァでしょ、駿はあきらかに狙ってやっています。ポニョに出てくる人物は、なんとなく、エヴァの登場人物に当てはめることもできるます。ポニョの父、フジモトはゲンドウだし、宗介の世話をする、リサはミサトさんに似ている、そんな具合です。
シン・エヴァンゲリオンで不完全燃焼だった諸君、駿のポニョを見てくれ、私は見た、そして泣いた。人類補完計画が全部わかった、ありがとうポニョ、さよならエヴァンゲリオン、ポニョがエヴァの最終回なのですよ。
コメント
エヴァンゲリオンを観たくなりました。宮崎駿がどれほどすごいのか確かめてみたいです。
ぜひご覧ください。