デモクラティック大名(10)

 信玄は九死に一生を得ましたが、兄思いの弟信繁や軍師山本勘助などよき理解者を戦で失ってしまいました。これからは上杉謙信のように、大事なことは話し合わず俺ひとりで決めたほうがいいんじゃないか、信玄はそう思いつつも、すぐにデモクラティック大名の看板を下げることせずに、合議制を続けます。

 一方家臣はというと、川中島の合戦でキツツキ戦法なんてものを主張したせいで大失敗していますから、軍議では信玄の意見に従うようになりました。形式的には合議制なのですが、実際は今まで以上に信玄の鶴の一声で全軍が動く仕組みへとなっていったのです。形骸化したデモクラティック大名ではありましたが、戦は連戦連勝、三方ヶ原の合戦では徳川家康軍を打ち破り、いよいよ天下が見えてきました。が、このタイミングで信玄の持病が悪化し、そのまま病気で亡くなってしまったのです。

 信玄の死をうけ、新たに武田の頭領となったのが武田勝頼です。勝頼は信玄が残した合議制をそのまま受け継ぎます、大事なことはみんなで話し合って決めるという、きなくさいフリースクールのような約束事は、信玄にとっては「建前」にすぎず、ただのおしゃべり会(今で言う居場所)にすぎませんでしたのに、まだ若くて実績がない、偉大な父親の二世でしかない勝頼にとっては、正真正銘、話し合いの場になってしまいました。だから何をするにも軍議をひらき、口うるさい御親類衆ゃ家臣と会い、重臣たちをいちいち説得しなければなりません、勝頼はさえない中間管理職大名だったのです。

 さらに創業者信玄が自分の死を3年間隠せという限りなく不可能な遺言も残したせいで、勝頼は正式な後継者でありながら、表向きは死んでいる信玄の家臣のふりをして戦国の世を戦い抜いていかないというハンデを背負わされます。勝頼の苦労は涙なしでは語れないのですが、あまりにも妄想が長くなりすぎましたので、ここらへんで妄言はやめにして正気に返りたい。いつかまたころあいをみて妄想を再開しようと思います。(終わり)

 


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