人狼ゲームとしての教育機会確保法(1) 序章

 人狼というゲームを知っいますか? 有名なボードゲームなのですが、遊ぶのに7人以上、人を集めないといけないところが敷居が高い。私も数回しかやったことない。ただ最近はインターネットでもできるので、一人でも練習がてら楽しみことはできる、これとか。

 人狼とは、どんなゲームか。ウィキペディアから引用して説明すると、まず村人陣営と人狼陣営とに分かれる。ただし誰が村人で誰が人狼かは分からない。昼と夜のターンがあり、昼のターンでは皆で話し合いひとりを処刑する。夜のターンは、人狼が村人を襲って殺す。これを交互に繰り返していく。人狼をすべて処刑すれば村人陣営の勝ち、村人と人狼の人数が同じになれば人狼陣営の勝ちとなる。

 心理戦のゲームです。人狼は正体がばれないように村人をよそおいながら、ひっそりと生き延びて、夜になったら村人を襲撃する。そうはさせまいと、村人は人狼と思われる人をあぶり出し、処刑していくのです。

 このゲームで勝つにあたって何がカギになるか? 人狼を見抜く鋭さ、正体を隠すうまさ、話のうまさ、確かにそれも大切なのですが、実はこのゲームは、頭の切れるセオリーを知り尽くしたプレイヤーよりも、バカプレイヤーの存在そのものが勝負のカギをにぎることが多い。

 心理ゲームですから、だます、だまされるの、駆け引きが醍醐味です。初心者はコツがわからずに、バカなプレーをするのはしかたがないというか、罪はない。それと、バカな人狼はすぐにばれて処刑されるので、ゲームにはたいして影響を与えない(村人に有利になるだけ)。

 さて私がしみじみと、人狼というゲームを通じて、人間とは何かと考えさせる状況をつくるのが、「バカな村人」という存在である。バカな村人プレイヤーがいたとします。彼らはこういう行動をとりがちです。

 空気の読めない彼らは心理戦において、村人をよそおう人狼の言うことを信じ、逆に村人を疑うのです。オレオレ詐欺にひっかかる老人のような心理状態ですな。振り込みはやめたほうがいい、と止める銀行員に敵意を向ける、あのお爺さんのパターンです。

 村人陣営の人は、このバカな村人を説得して、なだめ、わかりやすく解説をしてあげなくてはいけない。あれこれ「おもてなし」をしてバカが治るように、あれこれ手を尽くすのです、がそれがうまくいかないのが、バカな村人がバカな村人たるゆえんです。

 むしろ村人陣営の人ががんばって説得すればするほど、いよいよ偽村人である人狼のいうことを信じ、逆に説得してくる村人を疑うようになるのです。

 人狼陣営にとっては最高の村人ということになります。人狼はこの「バカな村人」を大切に扱います。夜のターンでこのバカな村人を襲撃して殺すなんてことはしません。だからバカな村人はゲーム終盤まで生き残り、ゲームの勝敗のカギを握り続ける存在として活躍し続けます。

 と同時に生き残るのが、バカな村人に疑われている村人です。冤罪、無罪、痛くもない腹をさぐられつづけている迷惑を被っている村人も生き残り続けます。バカな村人と、疑われている無実の村人の対立の状況こそが、人狼陣営にとって一番ありがたいのです。

 バカな村人と無実の村人との説得合戦の間に、どっちともつかない人、発言の少ない人と、存在の薄い無実の村人が、ひとり、またひとりと人狼によって襲撃され、殺されていくのです。

 あれっ、これって、なんかに似ている、なんだろうと考えた結果、ああ教育機会確保法における、反対派(?)に対する、教育機会確保法賛成派のやつらの行動原理と同じだなと気づいた。

 フリースクールネットだの、オルタナティブ教育だなんだとかといっていた連中の思考回路こそ、人狼ゲームにおける「バカな村人」そのものじゃないか。

 だとしたら…、教育機会確保法を成立させようとした人たちの、誰が人狼で、誰がバカな村人だったのか。そして、1年9ヶ月前に教育機会確保法が成立したという事実、つまり人狼陣営が勝利したという、この結果を踏まえて、「教育機会確保法におけるフリースクールの連中は人狼ゲームにおけるバカな村人である理論」を(まだかっちりと出来上がってはないというか、ただの思いつきでしかないが)、まあひとつの仮説として、雑に書きなぐっていきたいと思います。〈続く

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