電車で(1)

 「足、踏んだでしょ」と、私の前に立っている女性が、私の右斜め前に立っている女子に対して言った、というよりはからんでいたのです。電車の中で、私が座っている眼の前で、そういう小競り合いが勃発していたのです。

Train

 酒に酔った女が、無実の女子に粘着しているだなと思い、私のなかの正義がむくむくと湧き上がりました。「やめたまえ」と、心の中でその女性に言いました。あくまでも心の中だけで現実には何にも言わずに、じっとしていたのです。

 下手になんか言うと、自分まで巻き込まれるんじゃないかと……だって女子が足を踏んでないとすれば、ではいったい誰が踏んだのか? あれ? こいつじゃないの? この黙って座っているおっさんじゃねえの! といった具合にすぐ目の前に座っているこの私が容疑者としてスポットライトがあたってしまうのではと、それを危惧していたのです。

 清廉潔白、無罪、ひきこもり聖者である私が犯人呼ばわりされてはたまらない、冤罪だ、冤罪でございます、そんな妄想にとりつかれながら、だんまりを決め込んでいたのでございます。

 そうしている間にも紛争は続き、「踏んだのに、なに黙ってんだよ」「踏んでません」「踏んだろ、とぼけんなよ」「踏んでません」といった具合に、粘着女と無実女子が言い争いを続けていたのです。その時……。(続く


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