書評『三人姉妹』

「モスクワへ、モスクワへ」と三人姉妹がただ言い続ける作品(戯曲)。読んでない人はまさかそんなはずはないと思うかもしれないが、読んだことのある人なら、当たらずといえども遠からずと思っていただけるのではないか。

 井伏鱒二や太宰治も大好きだったロシアの文豪チェーホフの四大戯曲のひとつです。アイドルも舞台で演じています。そういうきっかけがなければ、誰も読まない作品だと思う。三人姉妹より、『桜の園』のほうが有名だけど、あえて三人姉妹を取り上げます。

 両作ともつまんないけど、桜の園がつまらないのには理由がある。主人公の貴族たちが没落していく一番の理由が、農奴制度(奴隷制度)の廃止だからです。主人公たちは、素晴らしい農奴制度がなくなったと悔しがっている設定なので、現代の平民としては、差別的な登場人物に、少しも同情もできません。

 で、『三人姉妹』。この主人公たち、三人姉妹(+長男)も、落ちぶれた貧乏貴族ですが、ただなんで落ちぶれたのかははっきりとしない。農奴制度のことも出てこない。ただモスクワに住んでいた軍人の父親が、地方に赴任となり、家族ともども田舎に引っ越しきたが、父親が死んで……、という展開です。

 だらだらと繰り広げられる貴族のおしゃべりがほとんど。あえて『三人姉妹』を無理やり俺流に解釈するなら、貴族の子息の就職活動の話だと思う。三人姉妹は、能力もなく、家柄はいまいち、貴族としては社会的地位も低く、財産もあまりない、若さも、美しさもなくなってきている。もちろん、まったくないわけではないが、中途半端というか、貴族としてはそのどれもが中の下なのです。

 平民の就活は企業に就職して賃金労働者になることですが、貴族の就活というのは、社会的地位があって財産のある貴族の子息と結婚することなのです。姉妹が「モスクワへ」と言い続けるのも、この条件に合う貴族との出会いのある、ロシア皇帝のいる社交界の中心地、モスクワということなのです。

 三姉妹+長男の誰かが、地位と財産のある貴族と結婚できれば、一家を救うことができる、という夢というか、空想をしつつ、心の底ではもうそれは無理だと薄々感じていている。三姉妹の次女は田舎ではインテリということになっている教師と結婚し、長女は学校で働いている。残っているのは、モスクワの大学教授に、なれたないいなと思っいる長男と、まだかろうじて〝若い〟女性である三女なのです。

 ネタバレになりますが、長男は大学教授にはなれません、村娘と結婚し、三姉妹を憤慨させます。どんづまった三人姉妹は、最初の夢とはかけ離れた、とても地位のある財産家とは思えないが、でもこの人と結婚すれば、なんとか一家が暮らしていけるだろうという程度の、なんの魅力もない、ちょっとお金があるだけのオヤジと三女を結婚させる道を選びます。が、その相手も最後は死んでしまう。もう働くしかない、ちくしょー、と言って(嘘、そんなことは言ってない)、幕は閉じます。

 雑に書き殴ったが、こんな話だったような気がする。違っていても、直さない。でもまあ、現代にもこういう生き方をしている人がいるわけで、だから読みつがれている作品なのでしょう。

 三姉妹は、その時代の貴族としては常識的な生き方をしていた。貴族の生き方のレールの上に乗って、そこから踏み外さないようにしていた。平民が学校にいって、就職するのと同じ感覚で、教養と礼儀を身に着け、社交界に出て、地位と財産のある貴族の子息と結婚するための努力を惜しまなかった。

 でも、三姉妹だけでなく、すべての貴族がそのように考えているわけで、競争は激しい。そもそも地位と財産のある貴族は、自分たち同じような貴族と結婚する(貧乏貴族を選んで結婚する理由がない)。じゃあ、どうするかとなると第二希望、第三希望と、妥協していき、少しでもましな相手と結婚しようとするのです。三人姉妹もそれをやっていた。そして、それに失敗したといえる。
 
 最後は平民のように働くしかないというところにまでいく。新しい生き方というのを口にはしているが、結局は貴族の定番の生き方をしたという、どんよりとしたお話です。これはお薦めしないぞ。

 


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です