甥っ子に「叔父さんは怒らない人なの?」と聞かれました。意味がよく分からなかったのですが、怒る時もあるぞと言うと、どんなふうに怒るのと聞いてきます。こらぁっ、そんな感じじゃないのと私が述べると、「じゃあ、やってみて」と言われてしまいました。いかがなものでしょうか。
この尋問はいったいなんなんだろう。誰かが何かを甥っ子に吹き込んだに違いない。でも理由もないのに怒ることは出来ないと説明すると、甥っ子は飴の空袋をぽいと畳の上に捨てました。これしきでは…、叔父さんもがっくりです。いいからすぐ拾ってゴミ箱に捨てるよう言うと、甥っ子はひょいと拾いゴミ箱に捨てると見せかけて今度は叔父さんの机の下にぽいと捨てました。お笑いでいうところの天丼ですが、そのパターンは知っているので、もう一度ちゃんとゴミ箱に捨てるようにいって捨てさせました。怒るポイント、ゼロです。
よく聞くがよい、叔父さんを怒らすにはね、ちょっと働いてお金を稼いだくらいで自分が何か偉いものになったかのように勘違いして、親切と余計なお世話の区別もつかず、何をするにも恩着せがましく、自分より弱い立場の人に対して、働け、出てけ、誰のおかげで飯が食えるんだというようなことを言う人間になればいい。
ひとたび怒れば、地獄の眷族を率いるひきこもり阿修羅王、憎悪の炎は地獄のように燃え上がる。八墓村の祟りを超える内弁慶をお見せしよう。でも甥っ子ごときでは、叔父さんを怒らすことは全然無理ですなあ。
コメント
仏教では怒ることは禁止されているんですよね。
怒りに智慧なし、幸せから遠ざかると。
自分が正しいと思っているからこそ
怒るのです。怒る人は傲慢なのですよ。
怒りに対する、人生経験の差を感じます。
僕も、同じように意味のない、多くの人が行動している事を常識とし、いかなる理由でも、その行動をとらない人に対して、恩を押し付け、強制改善をさせる行動は、怒りを通り越し、恨みの領域に入ります。
真の怒りは、薄皮一枚の常識からの逸脱した行為に対してではなく、その常識を強要する、その行動は絶対的にいいことなのだという善人になることにより、自我を支えている人の姿を見た時なのかなと思います。
これ(常識)を信じれば幸せになり、信じなければ不幸になる。
だから、言うことを聞いたほうが絶対的にあなたのためだ。
これでは、常識教という新興宗教への勧誘みたいでなんとも、煮え切らない後味の悪い怒りを感じます。
勝山さん、もうほとんどひきこもりブッダの境地ですね。
内面に怒りを溜め込んでいるから
ちょっとしたことで爆発してしまうんです。
心の換気が足らんのですよ。
怪我しても怒らず遊び続けた叔父さんに
対する、疑問だったのかもしれませんね。
ちょっとふざけたつもりが出血沙汰。でもこの程度怒ってはなりません。
子供相手ですから、全部怒っていては
切りがないですから、ここだけは譲れないという
一点についてのみ怒るべきでしょう。
殴るほうだって痛いとか
ぬかしてた人もいたなあ。ママンだけどさ。
バカも休み休み言わないと、誰からも相手にされなくなります。
「怒るほうだって辛い」なんていうのは、9割方嘘ですよね。
自分のストレス発散のためにやってることを、
「お前のためを思って」なんて恩着せがましく言われる筋合いはないと思います。
ああ、わかります。
ちょっとやそっとじゃ全然怒る気しなくなるんですよね。
怒る方が疲れるし。
僕もほとんど怒らないので周囲から、どす黒いものをため込んでるんじゃないかと危惧されますよ。それはワイドショーの見過ぎだ。
感服しました、
‥甥子さんへの対処の方法。
それはそうと、
もしかしたら、
甥子さんは、
前回、勝山さんが書かれていたように
叔父さんに手鏡を投げつけて怪我をさせてしまった‥、 なのに、
怒るどころか、
(その後も、何もなかった様に(?))
続けて遊んでくれた。
それで、冒頭の質問になったのでは、ないでしょうか‥?
ちょっとした事で怒る人いますね。
叱ると怒るを
誤解してるのも沢山いるし。
短気な人は病院に行った方がいい。