つくづく、場というものは澱んでいなければならない、と思う。お呼びでない主が、堂々と中央に鎮座してこそ、成熟した場と言える。居場所というものには、必ず苦味があるものです。居心地がいい場所と感じるのなら、自分がその沼の主になっているということ。場の雰囲気を良くもすれば、悪くもしているのが自分ということなのだから、ひきこもり沼に沈殿する主としては心苦しい。結局、主なりの責任感と呵責により、居心地が悪くなる。
澱まさせず、流して通過させようとするなら、場にはならない。居場所は一生ものである。時間が経つと追い出されるような、カラオケボックスのようなものは、居場所の対極にあるもの。生涯居続けの場所、という観点から場作りをしていけば、おのずとこじんまりした小さなサークルになるはずです。ひきこもりのための「沼」づくり、澱みこそ肝要であります。
コメント
適正価格100円で手に入れてくれましたか。ありがたい。
もはや絶滅危惧種です、見つけしだい保護して欲しいものです。
昨日は所要で(引きこもりなのに)街中へ出掛けたところ、なんと街に一軒しかないブックオフで100円の値札が付けられた『ひきこもりカレンダー』を発見してしまいました!それも、初版本。
山椒魚と共に眠る日々が、常に訪れたという快楽。
記事の内容とはほとんど関係のない話題でしたが、本当に収穫ある一日でした。
沼の底にじいっとしている感じを
つねにかもし出していたいものです。
ひきこもり中年男子が山椒魚のようにひっそりと棲息している小さな沼は、想像するだけで楽しそうですね。