阿難(あなん)、インド名アーナンダ。ひきこもり仏教団、唯一のもてもてイケメン仏男子です。そんな奴が悟りを開けるわけがありません。ブッダが生存中、阿難は悟りを開くことが出来ませんでした。若い頃からもてる男子にろくなのはいません。まして、悟りなんて開かせてやるものか、そんな誰かの気持ちが、一途な修行僧の悟りを邪魔したとかしないとか。
大迦葉(だいかしょう)、インド名マハーカッサパ。弟子最年長のもてない仏男子です。もともとお金持ちだったのですが、安心ひきこもりライフに憧れて出家しました。
ブッダが体調を崩し寝込んでいました。大迦葉は心配して話しかけると、ブッダは枕が欲しい言いました。大迦葉は自分の着ていた服をくるくる丸め枕にしてブッダに渡しました。もともと大迦葉はお金持ちですから着ている服も大変上等なものでした、肌触りがいい。ブッダはこの服の枕を気に入りました。大迦葉はブッダに喜んでもらえたのがうれしく、その服をプレゼントすると、ブッダは変わりに自分の着ていたボロボロの汚い服を大迦葉に上げました。
大迦葉は尊敬するブッダの服をもらい大変喜びました。生涯その服を着続けました。汚いボロボロの服を生涯着続けたのです。大迦葉からもてる要素が何もなくなった瞬間でもありました。
悟りとは何か。弟子達がよくブッダに聞きました。どうなんだ、悟るともてるのか、という問いかけです。それに対しブッダは蓮の花を持って、微笑しました。拈華微笑(ねんげみしょう)というやつです。ブッダは悟りとはどういうものか言葉で説明すると、ただ悟りさえすればいいと弟子が考えてしまったり、悟ってもてないなら辞めると言い出すのではと思い、直接は語らず、拈華微笑でごまかしていました。弟子は意味が分からず、残念な思いをしましたが、大迦葉だけはこの意味をすぐに理解しました。つまり、もてない男子こそかっこいい、安心ひきこもりライフが、悟りの道であると気づいたのです。
悟りを全く開けない阿難は、ブッダの身の回りの世話をしていました。ブッダも年を取ってからワンマン説法ツアーをするのが、体力的にきつくなってきたので、阿難とコンビを組んで営業していたのです。体力は衰えても説法のほうは円熟味がましてきます。そこに阿難というハンサム仏男子が加わったことで説法もソールドアウト状態です。ただ、ステージが終わるとブッダは阿難に、こんこんとお説教をしました。「女子を見るな、女子と話すな、女子に関わるな」と。
ブッダは解脱していました。解脱とは「女子にもてない」から「女子にもてたくない」と心の考え方を変えることです。そんなブッダから見て、阿難のもてもてぶりは言語道断でした。女子にもててる様では、悟りなんて開けねえぞ、と何度も脅しをかけるほどでした。実際、ブッダ生存中、阿難は悟りを開けないまま、ブッダに仕えるという生活をしたのです。
コメント
悶々とするばかりで悟りを開けない自分を
恥じ入るばかりです。
もてるようでは悟りは開けないのですよ。
どうも、小説をやりはじめてからアクセス数が減っているのが気がかりです。
初めて投稿します。よろしくお願いします。
『ひきこもり釈迦十大弟子』、ひきこもり文学の傑作です。今年度の「井伏賞」は勝山さんの受賞間違いなしです。
原始仏教においても「モテ問題」は重要なテーマだったんですか。僕も早く悟りを開いて心穏やかなひきこもりライフを満喫したいです。
勝山さんもいよいよ本格的に小説を書きはじめるのですか。注目している編集者は大勢いるでしょうね。勝山さんの小説が出版される日が今から待ち遠しいです。
毎回楽しく拝見させていただいています。
僕は、ちょっとお恥ずかしい表現になってしまいますが、人生の究極の目的はやはり悟りを開くことだろう、それは、個々の人々がそれぞれの人生体験を通して、常識などを超えたそれぞれの方たちの考えを生み出し、それを生活の中で何らかの形で活かしていくものだと思います。
悟りを開くためには、やはりプラス的人生経験とマイナス的人生経験があるとするならば、マイナス的人生経験を多く体験することにより、悟りやすくなるのではないかと考えます。
このプラス、マイナスは何を基準として線引きをするかと考えてみると、やはり多数派常識思想でしょうか。
マイナス的人生体験でしか、悟りを開けないのではと思う部分では、多数派常識思想に混ざって生きることは様々な苦しみを伴う体験が少ないと思われ、そこから生まれる葛藤がマイナス体験よりもはるかに少ないと思われるからです。
葛藤が少ないと、悶々とした中から色々と苦しみの思想を繰り返し、行動し、やがて常識の先にある「真実」を見ることができる・・・悟りとはそんな感じと思われます。
残念ながら、現代はこの悶々と苦悩の日々を送る事がタブーとされる傾向が強いように思われますので、悟りを開ける機会が減ってしまっているように感じます。