茶道を見てもぴんとこない。芸術なのか、日本文化なのかよく分からなかったが、思い当たるものを見つけました。さびれたひきこもり当事者の会や、家族の集まりです。事件などありひきこもりが社会問題として脚光を浴びたのが8年くらい前、全国にひきこもりに関する集まりができました。そして現在ひきこもり及び、ひきこもり関連のグループがどうなっているかというと、千利休になっているのです。茶道のようなわびさびの良さを確かめ合う、渋い集まりになっているのです。
ワーキングプアとか、ニートとか、ひきこもりに近いものは盛り上がっていますが、ひきこもり自体は利休です、わびさびです。どこのひきこもりサークルもいい意味で、利休が入っています。茶室の変わりがファミリーレストラン、茶器のながめる代わりに、ファミレスのメニューをながめ、雑談をする。若い女性の人数をできるかぎり削ぎ落とし、ひきこもり中年男子を中心とした緊張感のある茶会であります。
道。茶道にしろ、ひきこもり道にしろ、極めてくるとわびさびの世界に近づくに決まっています。わびさびこそ、真の美しさ豊かさなのです。それが分からんのですよ、豊臣秀吉及び世間の連中には。
わびさびが、きき過ぎている。侘びしい、寂しい、こんな寒い集まりはこりごりだと、もしかしたらひきこもりサークルの解散を考えているかもしれません。いかがなものでしょうか。ひきこもり道にとって、今は耐える時期だと思います。ひきこもりの集まりを継続するということは、ひきこもりの心を伝える文化遺産を守ることです。心洗われるわびの世界、堪能しようじゃありませんか。
コメント
秀吉はよい世辞を書きましたな。
これで朝鮮出兵さえなければ。
長い八年であるはずなのですが、
ひきこもり安定すると月日が経つのが早いです。
そろそろボクも悟りを開いて、ひきこもり成果をみせてやりたいです。
三次会といわず、一次会を茶室で開催して欲しいです。
うわやられた、というくらい苦笑する文章です。
今度から三次会は、日本茶の出る喫茶店がいいですね。でもそんなのないか。
世の中は、戦国時代から続いた長い長い戦いをよしとする生き方を求められる生活から、そろそろ脱却の時を迎えているのではないでしょうか。
様々な問題が噴出し、ひきこもりにはあまり問題にならない事が大変だ!と大騒ぎされています。
これらの問題は、戦重視の時代からまったく意味のない時代へと変化を求められている証拠でありますが、本来日本人が持っているはずの特権であるわびさびの文化がまったく消滅状態にあるのは、その原因の大きなひとつであると考えられます。
人生の中で、一人ひきこもり、悶々とし、苦しみ、そして悟りを開く・・・この本来、人生の中で必ず必要であると思われるプロセスがまったくない人々でできている世界が、いかに問題であったか、そのような時間を一人一人が持つ事により、防げたであろう問題がいっぱいあると思います。
今、それらが噴出してただ、ごまかし程度に修正しようとしていますが、耐震偽造のマンションと同じように、はじめから耐震強度が不足している建物は、補強程度では本来の強度が保てず、やはり解体・再建設が必要なのではないでしょうか。
この時代を解体し、再建設ができるのは、ひきこもって、悶々と自問自答を繰り返し、孤独に苦しみ、悩みに焼かれ、そして世の中と違う視点を持つ事ができるようになって、悟りを開いたであろう、ひきこもりなどの方々なのであろうと思います。
自問自答で苦しむのは、独自の考えの才能を生み出す最大のきっかけとなると思われるからです。
ひきこもりが騒がれだしてからもう8年も経ってしまったんですね……。そんなにバタバタと過ごしてはいないのですが、決して短くないはずの8年があっと言う間でしたね。精神的にバタバタしていたのかも知れません。
一度、ほんものの「わびさび」という境地を味わってみたいものです。
豊臣も臨終の際は「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは夢のまた夢」などと言ったそうです。
正直意味はわかりませんが、空しい人生だったみたいな意味だったと記憶しております。
あくせく働いて心の隙間を埋めるより、ゆったりとわびさびを感じ茶でも飲んでたほうがよほど幸せだと僕も思います。