映画語りをする奴は全員だめ人間、覚えておいて欲しい。そして私も今から映画について語らせてもらう。だめ人間だからさ。
映画『Retake リテイク』を観てきました(2ヶ月前に)。中野晃太さんの映画だというただそれだけの理由で観に行ったのですが、よかった。想定の三倍おもしろかった。
以下ネタバレです。ネタバレなし、事前情報なしで観たほうがおもしろい映画なので、観てない人は読まずに、今すぐ去りたまえ。
続きを読む(これから先はネタバレだぞ!) 映画リテイクについてのよもやま話。
予告編をみて青春映画なのかなと思っていたが、前半は「映画づくりの映画」で、中盤以降は「映画づくりの映画、という映画」というふうなメタな構造の映画になっていました。
正確には「映画づくりの映画」ではなく「自主映画づくりの自主映画」ですが、まあいい、ようは凝ったことをやっとるのですよ、中野さんは。
映画づくりの映画というのは「カメラを止めるな!」のあの構造です。映画リテイクはさらにその外側、スクリーンの外側もこの構造に含めている。文字で書くと分かりにくいし、たぶん伝わってないと思うが(私の書き方が悪いせいでな)、まあいい。面倒くせえや。でも観た人なら私が何を言いたいのかは分かるはずです。
前半は、ふたつの世界がある。
①若者たちが自主映画を撮る世界(青春)
②若者たちによって撮られた映画の世界(映画内映画)
映画のなかで「カット」と言って止まる世界が(映画内映画)の世界です。
で、後半。タイトルのリテイクの意味が明らかになるのは、この映画の世界の外側、つまり画面の外の作り手である、
③中野監督の世界(おじさん)
が登場することによってです。中盤以降は、(おじさん)によって映画そのものが中断され、撮り直しになる構造です。でもこの構造は曖昧というか、そうなのか? と思うような、ハッキリしない。観ている側が混乱するような演出がほどこされている。
なにせ中野監督自身は画面には映らないし、主人公による自撮りドキュメンタリーのような部分もある。いろいろ煙に巻いているのです。
映画そのものは途切れている(はずな)のが、そう見えないようにしている。
話を整理すると。
前半は、①の(青春)を中心に、ところどころ②の(映画内映画)がはさまる青春映画として、テンポよく進む。前半の最後は、主人公がヒロインに告白し、フラれ、そのせいでヒロインが映画に対する情熱がなくしてしまい、すべてがだめになるというバッドエンディングになる。
このタイミングで③の(おじさん)が発動し、前半が「なかったこと」になって後半が始まる仕掛けになっている。
映画のなかの若者たちが撮り直すのではなくて、(おじさん)が撮り直すのです。そこにメタフィクションのおもしろさがあるし、中野監督のアイディアがある。本人もどうだ! 驚いたろう、と思っているにちがいない。私も中野さんのくせに小癪まねを、と思いつつ映画に引きつけられた。やるな、賞を取っただけある、想定を越えてきたぞ。
中盤以降は、もうひとつの映画が始まる。
③の(おじさん)が作り直す、シン世界です。
❶シン・若者たちが映画を撮る世界(シン青春)
❷シン・若者たちによって撮られた映画(シン映画内映画)
ある種の、シン・エヴァンゲリオン。これでビシッとシン・リテイクでいく、と思いきやそうはならない。観た人なら分かっているだろうが、もしあの時こうしていたら、別の選択肢を選んでいたら、というもうひとつの世界でもベストエンディングにはたどり着かない。中野さんのくせにスカしてくるのです。
❶のシン世界で、ヒロインは音楽に対する情熱を取り戻すけれども、映画に対する情熱は失ってしまうという、映画作りの映画としてはバッドエンディングにたどりついてしまうのです。
そのタイミングで、③(おじさん)が再びリテイクを発動します。
そしてシンシン青春映画が始まるというループ映画になる。このあと何度も「シン」が積み重なり、何度もループする。
が、ここで問題なのは、ループさせているのが画面の外の人間である中野監督、つまり(おじさん)であることです。(おじさん)の夢を何度も観させられる構造になる。最初から夢だ、中野さんがみた夢だ、どうせまた撮り直しなんでしょと分かり切った状態で映像を観せられるのです。
ちっ。せっかくいいテンポで話が進んでいたのに、中野さんは何をしているんだ、手塚治虫先生が絶対やってはいけないと言っていた夢オチの連続になっているじゃないか。
もちろんそんなの言われんでも分かっておるというもの。中野監督もいろいろ演出に工夫をしていて単純な繰り返しにならないようにしている。ループも少しずつ短くしている。
それでも、退屈だ。とんだお預けだ。もうループはいいから、とっととラストシーンを見せんしゃい、と観客(私)は思うのです。
と同時に、「ラストシーンはどうしようか?」というヒロインのセリフが繰り返されることによって、映画のラストシーンに対する期待がぐーんと上がってしまう。
よっぽどおもしろいラストか、意表をつくラストでない限り、収拾がつかない展開となっていく。
映画を観ながら、私はずっと心配していました。中野さんはどうなってしまうのか。不安しかなかった。これは私が中野さんと知り合いだからであって、普通の観客はただひたすらラストシーンに対するハードル(期待値)が上がっていたことでしょう。
で、ラストシーン。ギリギリセーフというか、まずは、これしかないなというところに着地できていたと思う。たいていの人は気持ちよく観終えたことでしょう。たいていの人はな。わしはちがうぞ。
ラストシーンはヒロインが、新しいものを、次のものを撮ろう、新しい旅に出よう、ちょっと正確なセリフは忘れてしまいましたが、そんな感じのことをカメラに向かって言い、ループが終わるというメタフィクション的なラストになっている。
若者たちの青春映画のラストとして正解だし、意表をつくラストでもある。ラストシーンのないラストとも言える。若者の未来の可能性を感じさせる終わり方で、膠着した現在をスパッと切り離して、次に行く。
何かものをつくる、クリエイティブな人間ならこれを観て心に響くものがあっただろう。やり直すんじゃない、新しいもうひとつの世界へというメッセージであり、若者讃歌にもなっている。
これでいい。これでいいよ……若者はな。でも(おじさん)は違うでしょ。俺が見逃すとでも思ったか。みずみずしい若者たちに紛れ込んで、あたらしい扉から、どさくさまぎれに逃げ出そうとする(おじさん)の存在を。
中野監督のことです。映画そのものの前提をひっくり返すようなメタフィクションにした以上、映画の主体は、この映画をつくっているスタッフ、その代表である監督にある。監督が主人公なのです。だから、その主人公のためのラストシーンが必要じゃないのか。
文楽なんだよ。人形浄瑠璃なんだよ。人形を操っている人が(映ってないのに)見えちゃってる構造の映画なのです。忠臣蔵を演じている役者の人形を、中野監督が操っていると思って欲しい(と思っているのは私だけで、そう感じさせないようにしているところに、この映画のうまさがあるのだが、それは置いておく)。
だから、この映画には、若者たちのラストシーンだけでなく、真の主役である(おじさん)つまり中野監督にとってのラストシーンが描かれないといけない。
(おじさん)はどこに消えた? 『チーズはどこに消えた?』以来の謎が残る、いや残るはずだったが、映画終了後に、中野監督が舞台挨拶をしたので、それが奇しくも真のラストシーンになっていました。
でも映画の外である、いかがなものかと思いつつも、映画の外で、この自主映画は賞を取り、劇場公開まで果たしている。(おじさん)の成功と成長。感動のラストシーンとして完璧なのです。
これがもし、完成した映画の評判がかんばしくなく、上映する場所探しにも苦労し、観てくれるのは友達だけ、映画でこしらえた借金を返すため今日も朝からアルバイトなんていう、よくある自主映画のような末路をたどっていたとしたら、この映画は完成できなかったんじゃないのか。
そんな危うい構造を承知の上で、中野さんはビシッと一発で仕留めたのです。ちっとも「リテイク」なんてしていない。一発オッケイなのです。
スクリーンには映らない(おじさん)のガッツポーズが頭に思い浮かんだら、それがこの映画の真のラストシーンなのだと思ってもらいたい。
※以上、ネタバレよもやま話です。1回しか観ていないので考察というものではなく、観て感じて、妄想して書いたものです。いろいろ〝ちがう〟ところはあるかも知れないけど、とりあえずアップしておきます。
中野監督にとっては迷惑かもしれないが、近所に住む変なオヤジにからまれたと思って、諦めてほしい。
映画『Retake リテイク』、ちびちびと全国のミニシアターで上映が続くようなので、まだの人は、近くの映画館に来たタイミングで是非観てほしい。
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