ひきこもり虚弱体質でも富士山の頂上までは行ける。そのことを証明するために富士山に登ってきました。八合目まで4時間で登れるコースでしたが、初心者の中年男子ゆえに5時間半もかかってしまいました。山小屋に着いたのは日が沈む直前の午後7時です。
山小屋の寝場所が、ホントに狭い。一畳に1人くらいのスペースが、一般的とガイド本には書いてありましたが、実際は三畳に4人という更に窮屈なもの。寒くて狭い、蟹工船チックな場所に、憧れの富士で出会うとは。プロレタリア万歳と、心の中で叫ぶ以外、自分を慰める方法が分かりません。
私は友人と2人で登りましたら、自動的に相部屋というか、相就寝スペースとなります。4人で一区切りになっていて、隣りは若いカップルでした。中年男子2人と若いカップルで一区切りという、やや屈辱的な組み合わせです。いかがなものでしょうか。これも富士ブッダからの試練なのでしょうか。
カップルに気を使いすぎて、寝返りも出来ず、熟睡は望めません。富士山の山小屋では、仮眠しかできないと考えたほうがいい。しかも私は、ご来光が楽しみすぎたのか、日の出の4時間前に覚醒してしまい、そのまま眠ることなく朝を迎えます。
水平線のあたりに、雲が凸凹とあり、ご来光は微妙です。日の出の時間になっても太陽が出ません。雲の凸の部分と重なったようです。空は明るくなるけれども、太陽が出ない、だめかなと諦めかけた時に、ぽわりと太陽が顔を出しました。ご来光です。
夢は諦めると叶う。写メールをカシャカシャ撮り、モテモテになりますようにと手を合わせて拝んでいるうちに、ご来光は終了。陽が昇るのは意外と早く、時間にして7分くらいなんですよ。
期待が大きすぎたせいか、感動は小粒で、悟りを開くとかいうレベルではありません。でも、さすがご来光、おおいに楽しませ、満足させてくれます。芸人として、エンターティナーとして一流、スーパースターではないでしょうか。
コメント
登山に限らず、トラブル対応のための時間も予定に
組み込んでおくのが、プロの技なのでしょうね。今回身にしみました。
富士の修行はまた来年も行きたいです。
友達とあわせて72才分の、悪い意味で脂の乗り切った、加齢臭が若いカップルを襲ったのです。
彼らの愛が本物か試す、最大の試練だったに違いありません。
欲望、執着を明らかにし、捨て去ることがブッダ的な諦めなんでしょうかね。
「手に入れたいとするものは、実はそんなに重要なものでなくて、あっても無くてもかまわないものだったりする」というぴえろさんのご意見は僕にとって重要な問題です。
今ちょっと面白いなと思っていたり夢中になったりしていることも突き詰めて考えるとこんなことして何になるんだという思いに陥ってしまいそうになります。醒めたらおしまいですけどね。
「家族と仲良く平和に暮らすこと」結局僕が叶えたい夢はこれぐらいです。世の中は面倒くさいことだらけですからこの程度の夢さえ叶えることは大変ですけど。
今は朝から晩までTVは五輪一色ですけど正直疲れます。世界中の人々の夢の巨大テーマパークを見物しているような気分です。そのくせ一旦TVを観始めると結構長時間夢中になったりします。赤の他人がスポーツやってるだけなのに。
定年退職した父が一日中TVを観てたりすると、長生きしても何もやることがないというのはいかがなものかと以前は思ったりしましたが今はそれでいいじゃんと思えます。
ただ僕のように若いうちからやりたいことが何もないときついことを耐え忍ぶなんてことできませんからどうしてもひきこもりがちになり、気がついたら世間からすっかり置いてけぼりを食わされてしまいました。
脳が疲れてきて何が言いたいのかさっぱりわかりません。今日はこの辺で勘弁してください。僕が勝手に書き込んでただけか。
雲の悪戯も、ご来光の“芸人”としての演出だったのかもしれませんね。
仏教では、「諦める」というのは目指していたもの・ことを断念するのではなく、「明らめる」などという字をあてて、物事の本質を見極める(明らかにする)ことになるのだそうです。冷静な視点を持ち続ける為には、やっぱり執着心を棄てよということなのでしょうか(あくまで自分的な解釈ですが……)。
若いカップルと相部屋とは随分苛酷な修行ですね。これぐらいの荒行を耐え忍ばなければご来光を拝む資格は与えられないのでしょうか。
前向きに考えれば中年男子ィズが添い寝をしているというだけでカップルに対して相当な嫌がらせであるともいえます。先輩(今日は勝山さんのことをこう呼ばせていただきます。)とお友達の方とで猥談でもやっていたら彼らのいちゃいちゃ登山を完膚なきまでに粉砕することができたに違いありません。それこそ富士ブッダの御心にかなうことでありましょう。
僕も何度か、丹沢などに登ったことがありますが、大体、ペースに余裕を持たせるのと、万が一のトラブル発生の対応とその後の状況判断をするために、約6時間での登山時間としていました。
でも、日が沈む直前の時間に到着したということは、天気によっては感動的な昼と夜の間を実感でき、素敵な空のショーを楽しむ事ができたのではないでしょうか。
山小屋は、場所によってホテルみたいにテレビやベッドなどを完備している場所もありますが、ほとんどは雑魚寝状態です。
起きて半畳、寝て一畳といわれますが、まさにそんな状態ですね。
でも、ご相席に若いカップルと言うのは・・・もう、これは神様の試練としか言いようがありません。
富士山は当然、日本一高い山なので、日本の中で、天国に一番近い場所と言うところなのかもしれません。
ということは、ここに登ってきたということは、最終試練として、このような下界ならでは屈辱的な悲し的な試練を与えられたのかもしれません。
この屈辱的な試練を与えられた事により、富士山を下りて下界に戻った時に、どのように生活をするか、また世の中の人たちに対してどのように、導いていくかというものを神様は見られていたのでしょう。
今回の富士山登頂も、実は偶然ではなく、神様に登ってきて私の近くに来なさい・・・と呼ばれたのかもしれません。
富士山頂で、寝ているときなど、知らないうちに神様が何かもしかすると授けてくれたかもしれません。
写メのご来光、拝見させていただきました。
綺麗で、神秘的な太陽ですね。
一日の始まりって、僕なんか横浜で、病を持ちつつ生きていると、あぁ今日もまた始まったか・・・と途方にくれる事も多々あるのですが、富士山のご来光を見ると、一日の始まりを強く実感できるのでしょう。
諦めた途端に夢がかなう・・・これはあるかもしれません。
一つの事に強く執着していると、なかなか回りが見えず、実は何か手にしたい物や事象がある時、ちょっとその場を離れてみてみると、そのものを手に入れる近道がもっとあるかもしれないことに気づく。
また、執着している事によって、両手が塞がっていて目の前にそのものがあるのに、手にする事ができない。
もしくは、その手に入れたいとするものは、実はそんなに重要なものでなくて、あっても無くてもかまわないものだったりする・・・手に入れようと必死になっている事自体が実は無駄なのかもしれません。
と言いつつ、勝山さんが富士山でかけがえの無い体験をされている時、僕は横浜の平地で眠剤によって寝ていたかな・・・と思います。