映画『どうすればよかったか?』はどうすればよかったか?

 実写版『白雪姫』が酷評されておりますのう。予告編を見ただけでも、ディズニーが何かを間違えたことは伝わってきますが、でもそんなに悪くはないんじゃないのかなという気持ちもある。まったく関心がなかったが、酷評されているのをみると、ほんとにそうなのか確かめてみたくなる。

 その逆バージョン(?)として、予告編を見るかぎり、なんとも不穏な、嫌な感じがあふれていて、監督のインタビューを読めば読むほど、なにか違うという気持ちが大きくなる、にも関わらず世間では〝 好評〟な社会派ドキュメンタリー映画、それが「どうすればよかったか?」です。

 精神病がテーマでもあるし、これから映画の感想を聞かれることがあるかもしれないという義務感と、ひょっとしたら面白いのかもしれないという期待半分で観に行きました(2ヶ月前に)。

 結論。いかがなものか。

 いかがなものかというか…はっきりと不快な映画でした。でも世間様はおもしろがり、感動するのはなぜか。その理由を六畳間で寝そべり天井を眺めながら、反芻し、考え続けた結果、自分の感情移入する対象が世間様と違うのだというところにたどり着きました。

 普通にこの映画を観るならば、みんな弟である監督に自分を重ね合わせて観るはずです。家族にカメラを向け、尋問する監督の側に観客は立つ。
 介入すること、カメラを向ける暴力性なんてものにちょっぴり心を痛めつつも、発病した姉を「どうすればよかったか?」なんて考えながら、映画を楽しむに違いありません。

 わしは違うぞ。わしは映画が始まると同時に、姉と自分を重ね合わせました。統合失調症の姉側に立った。どうしたらよかったか? ではありません。

 「どうされるのか?」

 です。「撮る側」に自分を重ね合わせていれば気にならないことが、「撮られる側」の身になって観たとたん不快になるし、テンポの悪さにも憤慨もする。ホームビデオをつなぎ合わせただけの自称ドキュメンタリー映画に不満をたらたらになります。

 ヘタなのです。

 発表するつもりで撮っていなかった、ただ記録用に撮っていたと、ヘタをごまかすためなのか、天然なのかは分からないが、そんな言い訳のうえに成り立っているドキュメンタリー映画です。

 そのくせに音に対するこだわりはミョーに持っていて、撮る側である自分の声はハッキリと録音されている。一方撮られる側の声はホームビデオ(ハンディカム)レベル。音にこだわりがあるから字幕は一切ありません。

 迷惑である。
 単純に聞き取りにくいところもある。でもインタビューによれば、それを含めて演出なんだってさ。

 確かにヘタさゆえに、流出した裏ビデオのような迫力があることは認めざるをえない。監督の狙い通り、演出として成功しているのは間違いない。

 ただドキュメンタリーとしての迫力とは別の問題として、なにがどうなっているのかいまいち伝わってこない、全編にわたって説明不足なのがイライラする。
 私がこうやって映画の感想を語れるのは、ネットにある(藤野知明)監督のインタビューをいくつも読んだからです。映画を観ただけでは伝わってこないことが多すぎる。

 どうすればよかったか? まずはきちんと観ている人が理解できるように、人物の背景を詳しく描きたまえ。

 素人にこんなこと言われたくないだろうが、言わずにはいられない。ドキュメンタリー界の水野晴郎だよ、「シベリア超特急」を思い出した。もちろんシベ超はヘタを突き抜けて、ヘタカルト映画としての魅力をはなっているし、私も大好きなのですが……話を戻そう。

 問題点。
 映画の中では詳しく語られない、にも関わらず、どう考えても精神病を発症した姉を語るうえで欠かせないエピソードが抜けすぎている。

 弟思いの優秀な姉が、ある日突然、統合失調症になった、という設定になっているが、それ自体が事実でない。

 姉に関する重要なエピソード。
 4浪して医学部に入ったいう頭の悪さと、医学実習で失敗して留年が決まったという、のび太とバカボンを足して2倍にしたような、だめ人間ぶりが映画のなかでしっかり描かれていないのです。いかがなものか。

 姉はバカボンなのであって、「優秀」ではない。映画では語られない真実です。ここがしっかり語られないから、ずっと論点がずれていて話が噛み合わないのです。

 弟思いの優秀な姉がある日突然統合失調症になるなんていう設定自体が、精神病に対する偏見と差別なのではないか。
 正気を失い、心を病むには、それ相当の理由があり、原因があるのです。耐え難いほどのストレスがあって病気になるのです。

 誰がどうみたって受験の失敗と、医学生としての挫折がとんでもなくデカかったと思う。

 4浪してみろよ! 誰だって発狂寸前になるか、悟りをひらいて聖者になるかのどっちかだろう。

 姉は悟りを開いてガンダーラを旅することはなく、医者になろうとしてもなれず、この先どうやって生きていけるのかも分からず、絶望と不安の頂点で、苦しみのあまり顔がひん曲がり、家のなかで雄叫びをあげていたのだと思う。教育につぶされたのです。弟の藤野知明監督はこのことに映画のなかでほとんどふれていない。

 この家のなかには、医者になる、それ以外に生きる方法がないかのような空気がある。両親もおそらく(ここも描き方がゆるいのではっきりしないのだけれども)研究医なんだと思うが、つまりは臨床医ではなくて、現場というものと縁のない、代わりに学術的な世界とは縁が深い人間なのでしょう。とにかく世間が狭い。

 ただ、この弟監督なだけは家中にただよう受験競争を勝ち抜かなくてはいけないというプレッシャーから解放され、味噌っかす的に免除されている。
 たぶん年のはなれた弟ということで可愛がられて育ったことと、両親が姉の教育に大失敗した反省から、弟には勉強をさせないというか、なにひとつ期待せず好きなことをさせていたと思われる。ここも描かれていないから分からない。描いてもないことを語るのは気が引けるが、なにせヒントの少ない映画ですから妄想で補うしかない。

 姉についておおくを語らず、弟でもある自分についても語らない。映画のなかではです。インタビューでは語りまくっている……そんな映画監督はアリなのか。

 常に親から期待され、結果を要求される長女の苦しみと、その対極にある、なんの才能がなくてものびのびとヘタヘタ映画をつくる凡庸な弟。ひょっとすると姉の苦しみを描かないのではなく、心底わからないのかなとも思う。
 でも、わからないほうが幸せ。のびのびヘタヘタでよーし! 合格。

 観ていて姉が弟をかわいがっていた、面倒見のいい姉だつたというのは本当だろうなと感じた。なにせ家族が映画撮影に協力的なのです。特に後半。

 後半は弟が姉を撮っているというよりも、「姉が弟に撮らせている」という感じがする。撮られているほうは、撮っている側以上に完成した映像のイメージつかめているというもの。この映画の名シーンを思い出してほしい。

 ほぼラストシーンでの家族で花火を眺めているシーン、姉が車に向かって手を降るシーン(Vサイン? うろ覚え)とか。たぶん弟監督は姉が自然に振る舞っていると思い込んでいるだろうけれども、なんの才能もない、(映像制作を学んでも)ちっともできない弟が、カメラを構えてあれこれやっていたら、かつての優秀な姉としてはどうしたって、「いいシーン」を撮らせてあげようと思うはず。
 優秀っていうのはそういうことです。そしてそれをそうと相手に悟らせないのが、優秀っていうことなのです。

 この映画の中で、姉が「いいシーン」をつくりそこねる謎のシーンがあるが覚えているでしょうか。姉が同窓会に行きたい、というシーンです。当然、弟思いの優秀な姉の頼み事なのだから、二つ返事で承諾し、姉を同窓会に連れて行ってあげる、と思いきや姉がなんか急に変なことを言いだしたぞ、なんでだろう分からない、というつれない反応をするだけで連れていってあげない。姉は同窓会に行くのを諦めるというシーン。

 このシーンも思い返すと、たぶん同窓会に行くところをカメラに撮っていたら「いいシーン」になっていただろうなと気づく。姉がどういう人間だったのかを知ることのできる重要なシーンになっていたと思う。
 つまんない、どうでもいいとろこばかり撮っている弟へ、姉からのスルーパスだったことに、後半の協力的なシーンの連続を観て気づくのです。

 「いい絵が欲しくねえか」
 「撮り高が足りてねえんじゃねえの」

 そんな姉の思いやりが、この同窓会行きたいのセリフを生んだと推測しておく。全然ちがうかもしれないけど。ずっと妄想しか書いてないが、このままいきます。

 姉がひとりでニューヨークに行って家族を驚かせたらしいが、なんで行ったのか、行ってなにをしていたのかは、全然語られない。映画を観ているほうからすると、すごく気になるのですが、映画を撮っている弟監督は別段気にならんようですな。

 監督がアホやから映画がでけへん。

 普通の感覚なら、こんな鈍感力には付き合いきれないところだが、それでもこうやって撮影に付き合うのが家族愛なのかもしれない。

 予告映像にもあった南京錠で姉を家から出さないようにするシーンがあります。なかなかの衝撃映像で、この映画の見所のひとつなのですが、ならばですよ、それを撮るならば、姉が入院することになった精神病院の、まさに格の違う閉鎖ぶり、虫一匹逃さない監獄について少しくらい映すべきでしょう。

 入院して、薬飲んで、病気がよくなって退院した、そんな生ぬるい世界じゃない。

 医者に逆らえば、屈強な看護師がかけつけて、素っ裸にされ、おむつを履かされ、ベッドに拘束される。精神病院はそういうところだ。南京錠なんて子供だましにすぎない、片腹痛いわい。

 姉は入院して薬が効いたというほかに、世の中に鬼の住む地獄があると知って、それでおとなしくなったのです。

 家で問題を起こせば、またあの地獄の精神病院送りになると知れば、もう選択の余地はない。従うしかない。こういう日本の精神病院の現実がこの映画にはまったく出てこない。

 厄介な姉を病院に入れられて良かったね、もっとはやく入院させておけば良かったね、という話でまとめようとして、でもそれでまとめると患者側に立つ一部のうざい人権派連中が文句を言ってくるだろうから、いろいろいなご意見があるとは思いますが、みなさんはどう思いますか、どうすればよかったか、と問いかける。

 聞く前に、まずお前が答えろ。
 どうすればよかったと思うか、まず自分の意見を言え。

 でもたぶん何も答えないのでしょうな。映画に登場する父は母がどう思うかを気にし、母は父がどう思うかを気にする。弟は両親がどうするのか? を考える。他人がどうするかを気にするだけで、自分はこう考える、自分はこうする、といった主体性のない一族。たらいまわし。

 とはいえ、こうやって観終わってみると、あれこれ考えさせる映像素材にはなっている。好きの反対は嫌いではなく無関心である。もう虜になっているのかもしれない。私にとって噛めば噛むほど、苦い味が込み上げてくる映画なのです。

 映画のなかで、「優秀」って言葉が軽く使われているけど、優秀とは何なのか、優劣を決めるものは何かと深く考えていくと、監督自身がうのみにしている、親ゆずりの無邪気な価値観(差別心)が浮かび上がってくる。そこが一番の問題な気がするが、映画のテーマとはなっていないので、もうやめておきます。

 映画『どうすればよかったか?』については忘れたい、そんな気持ちから〝供養〟の気持ちでネチネチと書きました。ゆるしたもれ。


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コメント

  1. ひょんなことから初めてブログに巡り会いました統合失調症と呼ばれている者です。
    この映画に興味はありましたが、勝山さんのブログを拝見し、私は観たくなくなりました。
    不快感を味わいたくないからです。

    しかしながら、勝山さんと著作に興味は持ちました。

  2. 素晴らしい映画評です。
    さすが勝山さん。

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