おりたからといってすべてがなくなるというわけではない、どころか、おりて諦めても、捨てないで残る〝 なんか〟はある。
たいていは「好き」が最後まで残る。だめだ、おしまいだと、どん底フレーズを連発しつつ、消去法で残った「好き」をずっと掴んで離さない。そのせいで八方ふさがりのだめ人間であるはずの「おりている人」が相対的に自由に見えてしまうのです。
おりるとは、本人の意図に反し、好きなことしかしないというポジティブな行動となる。
逆におりないとはどういう状態か想像してみるに、諦めない(立派な)人というのは、収入や社会的地位のために、好きを抑圧している(ちょっと我慢している)ことでしょう。
おりない、諦めないという、本来ポジティブなものが、内面にある「好き」を抑圧して生きるがゆえに、ネガティブなものへと反転してしまいます。
だからそんなおりられない人たちの癒しのために、実はおりた人たちは後悔している、(ごまかしたり隠したりしているが)みじめな境遇であるという、そんな物語が(朝井リョウによって?)日々提供されているのではないか。
さまよえるおりた人の物語を読了し、おりない人生を選んで正解だった、ふんばった甲斐があった。我慢が大事、そのように納得して日々を生きていく人が……なんてことを空想しつつ、紀伊国屋のイベントであれこれ話をしたつもりでしたが、考えが固まっていないこともあって、話があやふやでした。
そして今も考えは固まらず、脳内は霧につつまれたままです。でも、このまま放って置くと持ち前の記憶力で「きれいサッパリ忘れて」しまいそうなので、メモ代わりに「おりる」についてちょこっと書き残しておきました。
紀伊国屋では『「おりる」思想』の飯田朔さんとトークをしました。その時のレポートがありますので興味のある方は読んでみてください。そして今度は池袋ジュンク堂で『人間関係を半分降りる』の鶴見済さんとトークイベントをします。おりるづくし、です。
おりる、というのは消極的で、ネガティブなことだと自分自身でも思っていましたが、嫌なことはやらない、やめる、を積み重ねているうち、好きなことしかやらない「マイウェイおじさん」になっていた。いかがなものでしょうか。そんな恍惚と不安を感じつつ、続きはまたトーク&交流会でということで、れっつ、しゃるうぃー。
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